実は私、母方の祖父とは会ったことがない。
なぜなら戦死したからで、もちろん同じ境遇の方もたくさんいらっしゃると思う。
母は満州産まれである。つまりは母方は戦中家族で満州に住んでいた。
よくドラマにもあるが、大陸側に住んでいた人たちは終戦まもなく引き上げ船によって祖国の地を踏めたのだが・・・
それは女・子供・老人が優先され、男はソ連・中国によって連行される・・・のがよく聞く話である・・・
祖父もやはりシベリアの収容所にて、極寒の2月1日に息を引き取った。
何が原因で死んだのかは定かでないが、多分軍人ではなかった祖父には環境が厳しすぎたのだろう・・・
一方・・・
祖母と母及びその姉妹は引き上げ船で帰国したわけだが、母(長女)から聞いたところ3人姉妹のうち
祖国の地を踏めたのは2人・・・
次女は引き上げ船の中で死亡したらしい・・・
その上亡き骸を南京袋に入れて海に投げ捨てたと言うことだ・・・
多分、衛生上の面からそうせざるを得なかったのだろう・・・
戦争と言う尋常でない状況下とはいえ、我が子を海に投げ捨て、待ち望んだ夫の帰国も潰えた
祖母の心情たるや、計り知れないものがあったと思う。
そして、それから十数年たった2月1日、日が変わったばかりの午前0時30分
祖母にとっての初孫の私が産まれた・・・
今でもモノクロの写真が残っているが、当日は浜松も一面銀世界だった・・・
それからというもの、祖母には本当にかわいがってもらった・・・
物心のついていない私には、戦中のことなぞ知る由もなかったのだが・・・
やさしい祖母だった・・・
それから、二十数年たった1990年1月某日・・・
私は病院で医師によるインフォームドコンセント(同意をするための説明)を受けていた・・・
私にとっての第一子が生まれる直前だったのである。
ただ、普通と違っていたのは妊娠状況が悪かった・・・
『前置胎盤』である・・・それも程度は最悪の『全前置胎盤』・・・
医療が発達してなければ母子ともに危険な状況なのである。
医師からは【帝王切開】の説明を受け、承諾をした。
もともと予定日は2月14日と言うなんともおめでたい日だったのだが・・・
医師はスケジュールの空き具合を見つけ、目の前で丸をつけたのが、2月1日だった・・・
別段私が希望したわけでもなく、医師がわざわざ気を利かせたわけでもなく、偶然だった・・・
そして、1990年2月1日・・・その日も吹雪のような雪が外では降っていた・・・
私にとっての第一子、祖母にとって初めての曾孫は無事産声を上げることができた。
そしてその報告をしたとき、祖母の目には光るものがあった・・・
『因縁』とか『因果』とか、私は形の見えないものをあまり信じるほうではない。
が、確率として 365×365=133,225分の1 = 0.00075% じゃん!
と片付けてしまうのには抵抗がある。
次の世代でまた、2月1日うまれが現れたとき、そのときには『因果』を信じようと思う。
【by ふつつかもの】